本、文学 (日本語)

2008年10月 2日 (木)

いまIan McEwanにちょいはまりです

いろいろ読み散らかしていますが、最近のちょっと気になっているのが、イギリスの作家Ian McEwan (イアン マキューアン)です。桜庭一樹さんの読書日記にでてきて、近所の本屋にいってみると、なんとこちらでも大ベストセラー作家待遇で、実際、小説でも、On Chesil Beach 等々、平積みされていて在庫もたくさんおいていて、さもベストセラー作家の様というかベストセラー作家の代表のようです。

 結局、『アムステルダム』を一気によみとばして、現在は邦題『贖罪』の原書Atonementを読んでいます。『デミアン』に出てきたようないろんな技法がちりばめられていて、とても楽しくよんでいるところです。

 最近気づいたのですが、こちらアメリカでは、以外と文庫本の値段がたかく、ときには、邦訳書のほうが安いこともたたあります。これがたまにきずですが、ときには英語で読みたくなることがあるのも事実です。

これだけは、、、小林カツ代『料理のへそ』

ちょっと話しは、それますが、滞米4年をすぎましたが、こちらで、一番うまくなった、、と自負しているのが、料理です。いま、ほとんど、なんでもつくれるようになりました。渡米まえは全くと言っていいほど料理したことがなかった、私の料理の師匠がこの本です。料理の鉄人で、中華の鉄人をやぶったことでも有名な小林カツ代さんの数或るホンのなかでは、一番うすくて、絵がすくないホンの一つだと思いますが、門外漢にもわかりやすい直感的な表現で料理の加減がかかれていて、なにより、その通りにすると、不思議なことにおいしい料理が出来上がるというスゴ本です。他のホンもいくつかあさってみましたが、これ以上に、コンパクトにまとまっているものはありません。

ほんとに、関空を飛び立つ前に、売店で、みかけて、途中よもうと買っていったホンですが、これが、うれしい以外で、スゴ本でした。

 だまされたとおもって、本屋さんで、ちょっと数ページみてみてください。きっと、なにかつくっちゃってると思います。

おちがない 『デミアン』ヘッセ著

すいません。いきなり文学的ではありませんが、最後の最後まで、いろいろな伏線、といってもわかりやすい伏線がいっぱいひかれていて、期待がとても膨らんでしまった分、最後のおちが期待はずれで、がっかりしました。

 最後の最後までは、どんどん引っ張られて、一晩で、全部読み切ってしまいましたが、最後の最後で、地元のことばでいうと、「おちが弱く」腰砕けしそうになりましたが、終盤までは、楽しく読ませてもらいました。

 意図的な、最近はやりの「すべり芸」を見ている印象でした。

 話の展開は終盤まで、とてもたのしめたのに、とても残念でした。

2008年7月22日 (火)

月と6ペンス サマセット モーム

最近、サマセットモーム『月と六ペンス』を光文社の古典新訳文庫でよみました。

 主人公の作家が、ストリックランド卿との交流を通して、彼の生涯を語るという話です。もちろん、ストリックランド卿には、画家のゴーギャンをモチーフにしているとのことですが、私自身は、実際ゴーギャンがどのような人物だったかという知識は持ち合わせておらず、真偽のほどは定かではありません。ただ、ひとつ、言えることは、ストリックランド卿の個性溢れるキャラクターだけに焦点をあてて、いきいきと人物のひととなりをさまざまな事件をおりまぜて展開していく様は、さすが、モームと感心しました。ところどころ、使い古された感のある、展開については、おそらく、いわゆる「ぱくり」ではなく、ぱくりの「お手本」なんだろうと推測しましたがいかがでしょうか。

 最終章でその、ストリックランド卿の精神性がとことんまで昇華されている姿を描くさまは圧巻でした。

土屋政男さんの新訳は、見やすく、読みやすく、白黒映画をカラーでみたような印象をうけました。

他の方の「月と六ペンス」の書評:

松岡正剛の千夜千冊 『月と六ペンス』

あれやこれや: 月と六ペンス

 最近、本屋さんにいっておもうことは、昔20年前ぐらいにまだ、小学生だったころに、大量に本屋さんに並んでいた作家さんのなかにも、村上春樹、司馬遼太郎両氏のように、今もたくさん並んでいるひとから、名前はあげませんが、依然は棚を一列占拠していたのに、いまは見る影もないという作家さんもいて、びっくりします。小説についてはほぼ20年のブランクがあるので、酒見賢一さんの『後宮小説』のように、依然みたことがあって、しってるけども、よんだことがない小説にであって、心を動かされることにとても感激してしまいます。

 小説とは、関係ありませんが、最近、ちょっと用があって、次の教本をさがしていたのですが、ちょっと$50ぐらいと高いので、とりあえず、ちょっと図書館でとおもって、Google books (英語版では、近所の図書館にあるか検索というのができます!?)で検索したところ、なんと。1964年の初版本が近所の図書館にあるというのでかりてきました。やく半世紀にわたって、ちょこちょこ書き込みがあり、歴史を感じつつ、サマセットモームのように、時代を超えて、生き残れる小説にであえればいいなとおもいました。

2008年6月22日 (日)

舞城王太郎『熊の場所』

『阿修羅ガール』につづいて、舞城王太郎の『熊の場所』という短編集を読んだ。

(『阿修羅ガール』については読者をがんがんひっぱる舞城王太郎『阿修羅ガール』

 


収録されているのは、

  • 『熊の場所』
  • 『バット男』
  • 『ピコーン』

の3編。
 『阿修羅ガール』を読んで、とくに読者にぐいぐい読ませてしまう力のすごさに感心して、翌週、読みすぎたら、いかんとおもい我慢したんですが、先週、つい、出だし数ページを立ち読みして、買ってしまいました。

 今回の読後感は、読者に読ませる力は、相変わらずすごくて、あっという間に小説の中に引き込まれてしまいましたが、残念なことは、話しの練り込みがすこしたりないんじゃないかと、ちょっと物足りなく感じました。悲しむべくは、そんなちょっと物足りない感にもかかわらず、最後まで、読ませてしまう語りのうまさというのでしょうか。もちろん、話しの世界の中に入り込んで、著者が意図した、解決に心地よくおもいながら、どうも話しの練りがたりないような気がして、手放しで大満足というわけにはいかず、おもしろく最後までよんだにも関わらず、期待値と比較して、ちょっと練りがたりないんじゃないかと、ちょいがっかりしつつ、こういうムラがあるのも、当然かもと妙になっとくしてしまいました。話の意外性のある、大きな場面展開が彼・彼女の持ち味であるとおもうのですが、今回も大きな展開はあるのですが、短編という制約でしょうか、その展開が唐突過ぎて、という印象を受けます。にもかかわらず、読み勧めてしまうというのか。以前長編作家が短編について、短編には短編の書き方があって、自分はどうしても、無理やり長編を短くきりつめたような短編を書いてしまうということをかいていたけれど、この短編集も、そのような印象をうけた。

この3作の中では”ピコーン”が全体としては、もっとも読後感が心地よかったですが、やっぱり、ちょっとものたりない感は拭えませんでした。

 フィギュアスケートで言えば、トリプルアクセルなど、ばちばち決めて、おのおのの小さい部分としては成功していますが、全体を一つの作品としてみると、総合点がでないというか、、なんというかむずかしいです。

 前回読んだ、舞城王太郎作品からの先入観で、彼/彼女なら、ここまで表現してくれるという期待(偏差値90?)ぐらいのところが、もちろん、いいんだけど(偏差値70とか?)、すごいけど、でも、期待とくらべるとそれほどというかんじでしょうか。

 これが、短編故なのか、著者故なのかはわかりませんが、でも、もう一冊は読んでみたいと思いました。

 『ピコーン』作中に引用されていた、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んでいます。該当箇所は、過ぎて、いまから、本編というところです。

2008年6月 7日 (土)

再発見 宮沢賢治著『セロひきのゴーシュ』

宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を読んだ。

たしか、ちいさいころに読んだことあるはずとおもっていたけれども、読んでみると、すっかりわすれてしまっていて、かえって新鮮であった。

昔とちがって、ちょっと出てくる、曲のタイトルなどをGoogle/youtubeなどで、実物を確認しながら、よんでいくと、虎狩りの唄が、いかに、そのまえに、たのまれた、しずかな曲と対照的であるかが実感されたりして、印象が以前よりもはっきりくっきり頭にのこった。

以前にすこし触れた谷崎潤一郎の『文章読本』でものべられていたとおり、必要十分なだけのことばを使うということの難しさを、この作品でも宮沢賢治は、のりこえて、すばらしい作品をつくりだしていることにびっくりした。

また、最近、身近でバイオリンを弾いているひともいて、こどものころは、なんだか、実感はないけれども、大人の人が弾く、あの大きなバイオリンみたいなやつの話しという認識であったけれども、以前にもましてありありと楽器を構えるさま、練習する様が目に浮かんでいた。


 

 ゴーシュがおこられているシーン、一生懸命になるシーン、どれをとっても、なぜだか、すべてが色付きの親しい、イメージがどんどんわき上がってきた。

 これも一つの童話ではありますが、童話といって敬遠されず、大人のファンタジーの小品として、読んでいただけると、幼少時とはちがった、まったく別の物語を発見できるのではと思います。

2008年6月 3日 (火)

太宰治『人間失格』 小説にでてくるひとはほんとよく物を考える

同じくもう一冊かってしまったのが、太宰治『人間失格』です。

これも、週末本屋訪問時の文庫本あさりのときに、見つけました。最近、『走れメロス』をよみかえしたこともあり、また、最近300ページ前後までなら、物怖じしなくなったこともあって、先ほど来くりかえしていますように、ほのかな期待をもって、手にとって、1ページめくってみました。前2冊(酒見賢一『後宮小説』綿矢りさ『蹴りたい背中』)とは、異種ながら、不気味な感じもありながら、ぐいっと引きつける強さは負けません。ついつい、こちらも、どんどん読み進めているあいだに、気がつくと3分の1ぐらいよみすすめていて、買ってかえることにしました。

 読了してから、mixiやamazonの書評をつまみ読みしてみましたが、どうも、同じ意見のひとがいないようです。わたくしにとっては、この主人公の『ようちゃん』はほんとによく物を考えるひとだな、それをよくことばにできるなというのが一番のおどろきで、その太宰治の筆力に感激しながらよんでしまいました。とても、深い深いところまで、つきつめたこころのうちが込められていて、内面を描く技量に感激しきりでした。

 この本も、先2冊と同様、本の題名も、壮丁もなにからなにまで、なじみでしたが、でもただの一度も手に持ったこともありませんでした。なんか、いままでなんて、食わず嫌いしていたことかとびっくりする反面、そのおかげで、この年になって、こんな充実した時間を読書でできるなんておもってもいず、以外な感激でした。

綿矢りさ著『蹴りたい背中』関西青春小説 

先ほど申し上げた酒見賢一さんの『後宮小説』と一緒にかってしまったのが、この綿矢りささんの芥川賞受賞作『蹴りたい背中』。

理由は、同じく、本屋で、久しぶりに背表紙をみて、懐かしくおもったから。といっても、『後宮小説』と同じく、何度も本屋で、その文庫、単行本の表紙とも、見かけたが、その当時は、どうも、芥川賞とか、なんとか賞方面には食わずぎらいであり、一ページもそれこそめくったことがなかった。『後宮小説』を買うことにきめて、ふとみると、この本もなんだか久しぶりだが、ほんだなにちょこんとすわっている。もしかしたら、さっきみたいに、実はすごいほんなんじゃないかなとほのかな期待をもって、また、一ページめくってみた。すると、さっきと手合いはちがうが、気がつくとまた話しのなかに引き込まれていて、どんどん読み進めてしまう。

 ただ、一つ、『後宮小説』とことなることは、以前にテレビで、見た綿矢りささんのインタビューのときのなまり、しゃべり方がおもいだされ、あたかも頭のなかでは、彼女の関西風アクセントのナレーションがながれていて、なんか気がつくと、頭のなかの主人公の中学生の顔も綿矢さんがぽこっとはまりこんでいる。ううん、テレビの力恐るべしとおもいながら、よみすすめていると、著者はきっと意図はしていないだろうが、この話し、ほんとに彼女の声でナレーションされるととてもいい。『後宮小説』と平行でよんでいたが、こちらはこちらで、関西風青春小説の(関西風というのは私がかってにそう思い込んでいるだけですが)形をとおした、じれったい気持ちを胸にストレートにくる形でつっこんでくる心地のよい小説でした。

 こちらも一ページメクってみることをおすすめします。

2008年5月28日 (水)

読者をがんがんひっぱる舞城王太郎『阿修羅ガール』

今週末は、舞城王太郎さんの『阿修羅ガール』、水村美苗さんの『本格小説(上)』を購入しました。ひとまず、薄い方からということで、『阿修羅ガール』を読み始めたところ、この前の伊坂幸太郎さんの『重力ピエロ』を読んだ時にもまして、どんどん読み進めてしまい、気がついたら最後まで読んでしまいました。

 三部構成になっていますが、最初の第一章で、アクセル全開で、突入して、第二章は、大分趣きがことなり、一見別の本をよんでいるような感覚がしつつも、第一章からの勢いで、どんどん読んでしまい、そして、第3章で、コントロールができるようになって、最後まで、自分のペースで読み終えることができました。

 アマゾン、mixi 等々の書評を読了後、拝見しましたが、第一章で、アクセルを踏み損なった人、アクセルをふむ気になれなかった人、第二章の違和感を心地よく感じた人、心地悪く感じて、車をおりたひと、、、、いろいろいらっしゃったみたいですが、それも、きっと、著者の舞城王太郎さんには想定ずみだったんじゃないかとおもわれる、作品でした。普段は著者の年齢はあんまりきにしないんですが、今回は、諸諸の構成要素がほぼすべて、なじみのあるものからできていたのは、著者と年齢が同じせいもあるのかなと妙になっとくしてしまいました。いつもは、なんとなく、細部についてはわからないことがあっても、筋に関係ないかときにしないんですが、今回は内容的には複雑な部分もありますが、細部には妙に合点がいく作品でした。


 とにかく、 物語る能力というか、ストーリーテリングというか、読者をどんどん引っ張っていく力は、今迄よんだことある作家さんのなかでも、飛び抜けて凄いんじゃないかと思いました。

 かれ(?)、かのじょの著作をもう一作よんでみようとおもいました。でも、たしか、行きつけには他になかったような。。。


 今週他に読んだ物:

芥川龍之介『鼻』

夏目漱石『正岡子規』

梶井基次郎『檸檬』

2008年5月22日 (木)

谷崎潤一郎『文章読本』 吉行淳之介の批判的あとがきもおすすめです

週末、サンフランシスコの紀○国屋書店迄行く機会があった。いきつけのサンノゼ店よりは、文庫本の質、量ともに随分良く、つい、かねがね欲しいと思っていた文庫本を少なからず衝動買いしてしまった。

 その中のひとつが、この谷崎潤一郎著『文章読本』である。最近よんだ諸小説がきっかけで、文体および文章の読みやすさ、読ませやすさについて興味を持つようになった。ちょっと、調べてみると、『文章読本』と名がつく本は案外たくさん出版されていて、そのなかのいくつかは学生時代に読んで半ばで挫折したりしたものもあるが、谷崎氏のものは、偶然今迄一度も本屋で見かけることがなかった。

 また、先月目にした浅田次郎氏の対談かインタヴューでこの本の一節をしり、読みたくて仕方がなくなってしまった。

 はじめの数ページをめくり、この本自体が、読みやすく、もうすこし読んでみたくなるように書かれていることに気づき、ほっとした。巷には文章読本、文書の書き方と銘打っている、なんとも難解な本が多いことにがっかりしたことも、すくなくないだけに、スタートからとても好印象である。

 詳細は本文を参照していただくことにして、私にとって、印象にのこった一節のひとつで、谷崎氏にとって、「名文」とはについての一節からです。

長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの

何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの

(谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)p. 83 「感覚を磨くこと」より引用)

 これは最近とくに、個人的に感じていることとも重なっている。繰り返しよむということは、以前、とくに学生時代の若い頃は特に、なんとつまらないことと思っていたが、最近は繰り返し読みたくなるような文章こそすばらしい文章であり、また、そのような文章を繰り返しよんでいると、まさにかめばかむほどのごとくにその内容が骨身にしみてくるのがここちよいと感じるようになった。

    あとがきは、吉行淳之介による数ページのものであるが、これがまた、本編と別に面白かった。理由は、吉行氏の手によるあとがきは、いわゆる文庫本のあとがきにみられるような、本編の要約や、あらすじであったり、著者に関するトリビアを披露するような通常のものとは異なり、本編に関する批評的考察から構成されている。短いですが、このあとがきによって、かえって本編をよみかえしたくなるという気持ちを鼓舞するすばらしいあとがきなので、これも読まないと損ですよ。

と締めかけてちょっとGoogleで眺めていると、彼の手によるこんな本がありました。


みかけたら、買ってみようと思います。


 

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